論文を掲載いたします【仏教東漸~釈尊から無相大師まで~】
我が大安寺は、先代からお通夜に宗門安心章を読んでいる。私が大安寺に寄せていただいてから早十年の歳月が過ぎたが、お通夜には必ずこの宗門安心章を読み聞かせ法話しているのである。宗門安心章には、第一信心帰依、第二自覚安心 第三行事仏道がある。その時その時の人々の状況を見て、何の章を読み聞かせるはその時時の判断である。最近では、第三行事仏道について法話している。行事仏道は葬儀の本質についてとかれている。以前は第二自覚安心を良く法話していたものである。
この自覚安心は何が書かれているのか?端的に言うと、とりもなおさず、仏教東漸の教えであるのである「そもそも諸仏出世の一大事因縁は、衆生をして仏智見を開かしめ、衆生に仏智見を示し、仏智見を悟らしめ、仏智見の道に入らしめんが為なり」とある。お釈迦様が衆生にお悟りを開かしめんがためにこの世にお生まれになったのであると自覚安心にはある。
禅宗の教え、殊に臨済宗の教えは、(以心伝心)直指人心見性成仏、不立文字教化別伝である。お釈迦様の悟りの心を、言葉ではなく直接人々、学人一人一人に伝える事なのでる。
お釈迦様は紀元前5世紀頃北インドのルンピニーにお生まれになった。南伝仏教の仏陀年代記によれば紀元前623年とある。最近の学術的研究によれば484年とあるものもある。又2013年には、ルンピニーの仏教遺構が発見され紀元前6世紀のものと考古学者は考えているらしいのである。お釈迦様は、シャカ族の王子としてカピラバストウーでお育ちになり、29歳の時に出家、35歳の時にブッダガヤの菩提樹の下でお悟りを開かれたのだ。その後、サルナートで5人の比丘を仏弟子にされた。仏教教団の成立である。それから45年の間たゆまぬ伝道布教の旅をされたのである。最初のころはラージャグリハ(王舎城)の竹林精舎で雨安居を組まれ、その後は、サラスワティー(舎衛城)の祇園精舎(祇樹給孤独園)を雨安居の中心とされたのである。
私は、30数年前に本当に有り難い機会を得て、インドブッダガヤに3年ほど研鑽と修養の日々を送らせて頂いた。仏教徒にとって聖地ブッダガヤは必ず巡礼したい土地なのである。臨済宗の僧侶にとっては、臨済禅の発祥、祖師方の由縁の地、中国大陸の方が聖地として重きを置いているかもしれないが、お釈迦様を尊崇している身には、是が非でも行ってみたい土地ではあったのである。此処で、お釈迦様は、「霊鷲山会上にて梵天王が献じたる金波羅華を拈じつつ、破顔微笑を賞でたまい正法眼蔵涅槃妙心実相微妙の法門を摩訶迦葉」(自覚安心)に伝えられたのである。ラジギールの空は青い。どこまでも果てしなく続く地平線。荒涼とした大地とかすかに見える木々。インド大陸の大自然は途方もなく広いのだ。そこに聳え立つ霊鷲山、鷲の峰とはよく言ったものだ。鷲が羽を広げたような岩山の形状なのである。インドはどこまでも広い。山がそこにはなく遙か彼方なのだ。だが此処は違う。お釈迦様が説法されたこの小高い山は大地に忽然と現れたかのように粛然と気高く存在しているのである。お釈迦様は北伝仏教によればこの霊鷲山で法華経をお解きになったとある。一頃読んだ書物に、「大乗仏教非仏説」というのがあるが、お釈迦様が法華経を説かれたか、摩訶迦葉尊者に以心伝心涅槃妙心の法門を果たして伝授されたかは、此処では言うまい。しかし、法を説かれ教えを説かれたのは確かであろう。清涼たる境地と遙かなる無上の喜悦を感じたのである。そして、そのインド仏教の神髄が菩提達磨大師に伝えられ、遠く大法を震土に伝えられたのである。
ところで、達磨大師の存在の信憑性は、学問的にも判然としない。菩提達磨についての伝説は多いが、歴史的真実性については、多く疑いをもたれている。南天竺国の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第28祖になったということになっている(ネット参照)が、達磨大師に関する最も古い文献「洛陽伽藍記」には、「時に西域の沙門菩提達磨はササン朝ペルシャの胡人なり、自ら荒裔より起ちて中土に来遊した。永寧寺の塔の金の承露盤が太陽に輝いて、光は雲の上まで照らし、~中略~その出ずる様に出会い散文を唱えて誠に神業だと賛嘆した。この永寧寺の素晴らしさはまたとない、たとえ仏国土を隈無く求めても見当たらないと言い、口に南無と唱えつつ幾日も合唱し続けた」とある。更に、自覚安心にはこうある。「祖師西来意、もとより梁王も識らざるところ畢竟無功徳。廓然として聖諦無し」と。このとき梁の武帝は菩提達磨大師に質問した。「朕は即して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。何の功徳があるのか」と。師曰く「無功徳」。帝曰く「如何是真功徳」。答えて曰く「浄智は妙円にして体は自ら空寂なり、如是功徳世に求めても似ず」。帝また問う「如何是聖諦第一義」。師曰く「廓然無聖」。帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」。師曰く「識らず」。(景徳伝燈録)これが有名な菩提達磨大師と梁の武帝の問答である。因みに余談ではあるが、南北朝のこの時代、梁の武帝はこの後、異民族に攻められ牢獄に閉じ込められて憤死したのであった。梁の城塞都市住民数十万人は殆ど皆殺しにあった。僅かに残った住民は累々と築かれた死体の山に寝床を敷き、食べるものも無く飢え苦しんだが、人肉を食って飢えを忍んだと歴史書「資治通鑑」にある。梁の武帝と梁の国はすぐに滅んだのである。これが史実である。
そして大通二年、神光という僧侶が自分の臂を切り取って入門を求めた。慧可大師である。慧可大師は「毎日不安で苦しみの中にある、どうかお諭しを示してください」と達磨大師に問うたのである。「それならばお前の不安な心を探し求めて私にその心を提示してみよ」と言われた。慧可大師は不安な心を探し求めたが、とうとう探し求めることができなかった。「不安の心を求むるに不可得なりと徹してぞ二祖安心は得たまえる」(自覚安心)
「達磨問二祖、『汝立雪断臂、当為何事?』祖曰、『某甲心未安、乞師安心』。磨云、『将心来。与汝安』。祖曰、『覚心了不可得』。磨曰、『与汝安心竟』。二祖忽然領悟。(碧巌録)」
さてそれから時を経て、法は宗祖臨済禅師に伝えられた。臨済禅師は言われた。「道流、心法は無形にして、十方に通貫す。眼にあっては見といい、耳にあっては聞といい、鼻にあっては香を嗅ぎ、口にあっては談論す、手にあっては執捉し、足にあっては運奔す、本と是れ一精明、分かれて六和合となる。一心既に無ければ、随処に解脱す」(臨済録示衆)と。また、「道流、山僧が見処に約すれば、釈迦と別ならず、今日多般の用処、什麽をか欠少す。六道の神光、未だ曾て間歇せず。もし是くの如く見得せば祇だ是一生無事の人なり。~中略~病は不自信の処に在り。念念馳求の心を歇得せば便ち祖仏と別ならず。~中略~祇だ你の面前聴法底是なり」(臨済録示衆)と。臨済禅師は、我が臨済宗の宗祖であり臨済宗の淵源であり、臨済録は、臨済禅においては、宗門第一の書なのである。
臨済宗の歴史は南宗禅にある。中国の禅は北宗と南宗の二つに分かれるのである。伝説時代のことはひとまず置き、禅宗がひとつの実体的な勢力として中国史の表面に登場してくるのは、初唐末からのことである。大通神秀とその門下普寂・義福らが、則天武后や中宗、玄宗などの皇帝から次々に帰依を受け、長安洛陽の宗教界に君臨するようになった。彼らは嵩山を自らの聖地としつつ、次のような伝法系譜をかかげることで、王朝の支持とひろく一般の信仰をあつめることに成功した。
菩提達磨-慧可-僧璨-道信-弘忍-神秀 の系譜である。ところが、その後、荷沢神会の出現によって、神秀は五祖弘忍の嫡流ではなく、慧能こそ達磨大師の真の嫡流第六祖であると激烈に主張しだし、神秀・普寂の一門は漸悟を説く「北宗」にすぎず、「頓悟」を説く慧能の法門こそが正統の禅「南宗」であると言ったのである。依然として中原には北宗禅は続き、いっぽう四川には浄衆寺無相の浄衆宗や保唐寺無住の保唐宗、さらには神会の荷沢宗が現れ、江南には、牛頭法融を祖とあおぐ牛頭宗も登場した。その中で最終的に勝ち残ったのが洪州宗、すなわち江西の馬祖道一の流れである。これが詳しく知られるようになったのは二十世紀の初頭に敦煌文献が出土し、そのなかから未知の禅宗文献が多数発見されたことによる。その後の禅宗の伝統のなかで、唐代の禅は、六祖の「南宗」禅が南嶽懐譲と青原行思に分かれ発展していったと語り継がれるようになった。南嶽懐譲の下に馬祖道一、青原行思の下に石頭希遷、そして、それぞれの下に数多くの優れた禅者が排出して、潙仰宗、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の五つの宗派、いわゆる五家が形成されていくのである。(語録の思想史 小川隆著 参照)我が臨済宗はこの時に生まれたのである。
そうして、再び時は流れ、南宗禅、いわゆる洪州宗の禅の系譜が、中国から日本に伝わった。この流れは、各所の勉強会で講義され、おおよその学問的常識となってきている。このことは、臨済禅の一派、方広寺に管長として晋山された安永祖堂老師も、臨済録や六祖壇経の講義研究会でしばしば語られた事実である。日本への禅は、鎌倉時代に決定的に伝えられたと言っても過言ではないだろう。建仁寺の栄西禅師が、初めて臨済禅を日本に招来された。そして、南浦紹明、円通大応国師が建長寺の蘭渓道隆師に参じ宋に渡海、虚堂智愚の法を継がれた。その弟子が京都紫野の大徳寺開山、宗峰妙超、大灯国師である。大灯国師は嗣法の後、約20年草案にあって京都で乞食をされた。その修行は激烈であり、峻烈無比の禅風についてくるものも少なかったと言われている。その門下に妙心寺開山、関山慧玄無相大師が居るのである。建武4年、大灯国師は、重病になり病に伏すが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、関山慧玄老師を推挙された。(ネット参照)この消息こそが妙心寺開山無相大師の誕生なのである。この法統を「応、灯、関」といい、現在の日本の臨済宗は、皆この流れに属するのである。
無相大師は、国師号を頂かれている。毎朝大安寺は、三国歴代祖師方にその慈蔭に酬いんが為回向している。無相大師は、本有円成仏心覚照大定聖応光徳勝妙自性天眞放無量光国師大和尚である。無相大師の禅風も又、厳格でその生活は質素を極めたと言われる。「寒暑たがいに移れども、慧玄が這裡に生死はなしと示されぬ」(自覚安心)なのである。「ある時、来山した僧を関山は斥けた。僧が『無常迅速、生死の大事を質問しに参ったのです』と訴えたところ、『慧玄がのもとに生死はない』といい、棒打ちにして追い返した」(ネット参照)そうして、無相大師の教え臨済禅の端的は、「行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち座す。飢え来たれば飯を喫し、困じ来たれば即ち眠る。祇平常にして無事なれば、無事是貴人と悟るべし」(自覚安心)なのである。
住職徒然の想い 2019年9月
大安寺もそろそろ秋の気配が感じられるようになりました。今の時期は、鑑賞する花も少ないですが、薔薇、萩、百日紅、虎の尾などが咲いてまいります。大安寺にもこれらの花が咲いておりますが、萩の花と虎の尾をご紹介します。
住職徒然の想い
ここ30年ほど、絵を描いています。水墨画から始まり、日本画、油絵と勉強してまいりました。
最近は仕事が忙しくて油絵を描く時間はありませんが、水墨画、日本画はたまに描いています。
日本画は狩野派の流れを汲む横山大観、片山南風と続き、その弟子、小堀墨秀先生について勉強しました。
油絵は東京芸大卒の画家、河野興二先生にデッサンをしごかれ油絵を描くことになりました。油絵はアトリエも必要なので、なかなか描く時間はありませんが、近い将来100号の大作を展覧会に出せたらいいと思います。
下の作品がその一部です。
達磨忌
10月5日は達磨忌です。大安寺交通安全御守りをお配りします。
達磨さんの絵と観音経絵巻を鑑賞いたします。